着物まめ知識-写楽

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東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく/東洲齋 寫樂/生没年不詳)は、
江戸時代の浮世絵師です。
寛政6年(1794年)に出版が開始された後、不思議な事に
確認されている錦絵作品は、約10ヶ月の期間内に集中し、
その後の消息は不明です。

当時は売れない画家だったと推測されます。
「あまりに真に描かんとてあらぬさまにかきなせしかば」と言われるように、
本来の目的であるプロマイド代りから大きく逸脱して、
肖像画の世界に入ったのが原因のようです。

確認されている中で、写楽の筆によるものと思われる作品の大首絵は、
大胆かつ巧みにデフォルメを駆使しながら、なおかつ
目の皺や鷲鼻、受け口など、その役者が持つ個性をありのままに描く役者絵です。
このことから、描かれた役者と役柄から写楽の実像を推測するべく検証がなされ、
これが現在の写楽説の主流になっています。

彼らが出演した芝居の上演時期があり、
これを元に役者絵の発表時期は4期に分けることができます。

しかし、後期に向かうほど作品における絵画的才能や版画としての品質が劣るため、
真偽に疑問が投げかけられているものが多くあります。

すべて蔦屋重三郎の店から出版されているのも特徴です。
(挿図の右下方に富士に蔦の「蔦屋」の印があります)。

第1期が寛政6年5月(28枚)、第2期が寛政6年7月・8月、
第3期が寛政6年11月・閏11月、第4期が寛政7年1月。

写楽の代表作とされるものは第1期の作品で、
後になるほど生彩を欠きます。
このほかに相撲絵などで、写楽銘の残るものもあります。

ドイツの美術研究家ユリウス・クルトが
レンブラント、ベラスケスと並ぶ三大肖像画家と
激賞したことがきっかけになり("Sharaku" 1910年)
大正以降、日本でも評価が高まりました。

別人説 もあり、『江戸名所図会』などで知られる考証家・斎藤月岑が
写楽の本名は阿波(蜂須賀家)の能役者・斎藤十郎兵衛で、
八丁堀在住であると書き残したのことですが(『浮世絵類考』への加筆)、
十郎兵衛の実在はなかなか分かりませんでした。
そこで「写楽」とは誰か他の有名な絵師が何らかの事情により
使用した変名ではないかという「写楽別人説」が浮上しました。

蔦屋が無名の新人の作を多く出版したことの不思議、
短期間に活動をやめてしまったのは何故かなどということが
謎を生み、別人説の候補として
浮世絵師の歌川豊国、歌舞妓堂艶鏡、葛飾北斎、喜多川歌麿、
作家の十返舎一九、俳人の谷素外など、多くの人物の名が挙げられました。

その後、近年の研究によって実際に阿波の能役者・斎藤十郎兵衛が
八丁堀に住んでいたことが明らかになり、
写楽と斎藤十郎兵衛の関連性は高いと考えられるようになってきました。

その根拠は以下の点からです。
・同じく能役者の伝記『重修猿楽伝記』にも斎藤十郎兵衛の記載があること。
・能役者の公式名簿である『猿楽分限帖』に斎藤十郎兵衛の記載があること。
・埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派今日山法光寺の
 過去帳(文政3年)に「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良(郎)兵衛」が
 58歳で死に千住にて火葬に附されたとの記録があること。
・江戸の文化人名簿の『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目に
 「写楽斎 地蔵橋」との記録があること。
・浮世絵類考の写本の一つ(達磨屋伍一旧蔵本、 斎藤月岑の増補以前?)
 には
 「写楽は阿州の士にて 斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話なり」とあり、
 栄松斎長喜は写楽と同じ蔦屋重三郎版元の浮世絵師であり、
 写楽の事を知っていたとことが推測される
 (長喜の作品「高島屋おひさ」には団扇に写楽の絵が描かれている)。

時代背景は、蔦屋が寛政6年に写楽の浮世絵を発刊しましたが、
今まで
「財産半減という処分を受けた後なので、蔦屋が浮世絵で大儲けを狙った」
といった解説が一般的に流布されていますが、
専門家の研究によれば蔦屋の扱っていた商品は
『投機的なリスクを伴う分野のものは一点も見当たらず』
『蔦重は定番商品の出版権を握ったうえで堅実すぎるほどの商売をしてきた』
との評価のようです。

また、当時の浮世絵版画は安価なもの
(16文、当時の約蕎麦一杯の値段)で、
一度に大きな利益を得られる商品ではありませんでした。
葛飾北斎も、この時期(寛政6年頃)まだ彼は「北斎」を名乗ってはおらず
「春朗」「宗理」の名前で活躍していました。
また、文化年間の一時期には「可候」の号を使用しています。

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