闘茶(とうちゃ)とは、中世に流行した茶の味を飲み分けて勝負を競う遊びであり、
日本では茶寄合・茶湯勝負・回茶・飲茶勝負・貢茶、
中国では茗茶・銘闘などとも言われました。
中国の唐代に始まって宋代に発展したと言われていて、
日本に伝来後は中国・日本ともにそれぞれ独自に発展しました。
茶道の原型とされ、日本において本格的に喫茶が行われるようになったのは、
鎌倉時代に入ってからのことです。
後期に入ると各地で茶樹の栽培が行われるようになりましたが、
産地間で品質に差があり最高級とされたのは京都郊外の栂尾(とがのお・京都市北西の山中)
で産出された栂尾茶で、本茶と呼ばれ、それ以外の地で産出された非茶とされました。
(後に宇治の茶の質が向上して宇治茶が栂尾茶と並んで本茶として扱われるようになりました)
最初の闘茶は現在の茶道のように格式はなく、
本茶と非茶を飲み分ける遊びとして始まりました。
しかし「群飲逸遊」と倫理面での批判や闘茶に多額の金品や土地、財産などが賭けられ、
二条河原落首では闘茶の流行が批判され、『建武式目』にも茶寄合(闘茶)禁止令が出されましたが実態は隠れて広がっていきました。
闘茶の方法は色々で、最初は本茶と非茶を2者択一で選択するもので、
最初に間違いをした者が敗者になります。
その後、複雑化していきました。
闘茶の全盛期であった南北朝時代から室町時代初期にかけて最も盛んに行われたルールが
四種十服茶(ししゅじつぷくちゃ)です。
このルールは種茶と呼ばれる3種類と客茶と呼ばれる1種類の計4種類を用い、
まず種茶を点てた3つに「一ノ茶」・「二ノ茶」・「三ノ茶」と命名して、
それぞれ試飲させて味と香りを確認させます。
次に種茶3種類からそれぞれ3つの袋、試飲に出さなかった客茶1種類から1つの袋の合計10袋の
茶袋を作り、そこからたてた10服分の茶を順不同に参加者に提供してこれを飲ませ、
10服の茶が最初に試飲した「一ノ茶」・「二ノ茶」・「三ノ茶」のうちのどれと同じものか、
または客茶であるかを回答し、その正解が最も多いものが勝者になります。
これを複数回行う場合もあり、後述の佐々木道誉の「百服茶」
(「百種茶」とは10回分の勝負を行ったもの(10服×10回=100服))で、
夜を徹することもあったとのこと。
他にも闘茶の方法は「二種四服茶」・「四季茶」・「釣茶」・「六色茶」・「系図茶」・「源氏茶」などが
ありました。
その後、15世紀中頃から闘茶は衰退します。
また村田珠光・武野紹鴎・千利休によって侘び茶が形成されていくと、
闘茶は享楽的な娯楽・賭博として茶道から排除されました。
亜流として闘茶は歌舞伎者らによって歌舞伎茶(茶歌舞伎)として愛好され続け、
侘び茶側でも茶の違いを知るための鍛錬の一環として闘茶を見直す動きは起こりました。
17世紀に作成された『千家七事式』には「茶カフキ」として取り上げられ
闘茶も茶道の一部として編入されました。
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『光厳天皇宸記』正慶元年6月5日(1332年6月28日)条に廷臣達と「飲茶勝負」を行ったことが記されています。
『太平記』には、佐々木道誉が莫大な景品を賭けて「百服茶」を開いたことが記されています。